久下氏
一 番
(皇胤/清和源氏ともいう)


 中世の丹波に勢を振るった久下氏は、舒明天皇の皇子である磯部親王の後裔(異説もあり)といい、親王の三代目に源満仲の弟武末が養子として入り、その孫基直が開発地の久下を称し、武蔵国久下郷に在住した。治承四年の源頼朝旗揚げに際しては、直光・重光父子は最初大庭景親に属したがのちに頼朝に従い、一ノ谷の合戦などに戦功があって、頼朝より伊豆国玉川荘・三河国篠田村・丹波国栗作郷などを与えられたという。なお建久三年七月直光は姻戚の熊谷直実と所領の境界を争って、頼朝の前で対決したとき、直実が突如その場から出走し出家したことは『吾妻鏡』に書かれている。
 承久の乱には久下三郎が幕府軍の一員として京都へ上った。戦後、かれは武蔵へは帰らず、所領の丹波国栗作郷金屋に留まった。
 南北朝の動乱期には、時重をはじめ久下一族は足利尊氏に属して各地に転戦したが、特に建武三年、尊氏が新田義貞らに敗れて丹波に逃げたとき、および観応二年、尊氏が弟直義と争い、孤立して子義詮と丹波に逃れたとき、よく防護し、尊氏が義詮を留めて播磨におもむいた後は義詮を井原庄岩屋に護って、その難をしのいだ。
 この父子の危難を救った功は大きく、時重はもちろんのこと、その子貞重・頼直・幸興ら久下一族は丹波を中心に武蔵・飛騨等に十数か所におよぶ所領を与えられて、丹波国内では荻野氏とならぶ最有力の武士となった。そして、時重・貞重父子の代が久下氏の最盛期でもあった。
 明徳の乱には、当時の丹波守護山名氏清の守護代小林修理亮に属して、丹波国人らとともに将軍方の軍勢と対陣したが、丹波軍が将軍方に寝返ったことで敗戦をまぬがれた。そして重元は所領を将軍義満から安堵されている。その後も代々の将軍に所領は安堵されていたが、戦国時代に入ると全く状況は変化した。
 明応二年、畠山氏の内紛に、将軍義材は一方の政長を援け、河内国へ親征した。この戦に、久下政光は将軍に従っておなじく河内へ出陣した。しかし、義材の留守中に管領で丹波国守護である細川政元がクーデターを決行し、義澄を擁立して義材と政長らを攻めるために大軍を河内に進軍させた。将軍方は大敗し、政長は自害、義材は降参、政光はやっとのことで逃げたが、丹波守護も守護代も敵方なら、近隣の国人らすべて敵方となってまったく孤立化し、以後十六年間におよぶ流浪の身となった。
 久下氏の所領は、政光が流浪中遠近とも全く失われた。その後大内義興に奉された義材が再び将軍に返り咲き、政光も愁眉をひらくことになった。しかし、所領は波多野氏や赤井氏に押領され、領内の名主や荘官も他家の被官となってしまっていた。当時の弱い者いじめの様子をよく示している。これに対し幕府は、返却を命じたらしいが、実行された様子はなく、幕府も重ねて返却を命じたが、まったく無視されたらしい。
 そして、信長の丹波攻略に際して、かつて強大を誇った久下氏も窮乏のまま、赤井氏らとともに、 明智光秀軍に押つぶされてしまった。

【参考資料:丹波史を探る(細見末雄)神戸新聞総合出版センタ刊】  

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■参考略系図