厚東氏
輪違い
(物部守屋後裔)


 「厚東氏系図」によると長門国厚狭郡を本貫とする豪族で、物部守屋の末裔という。厚狭郡楠町吉部八幡宮の弘長三年、嘉元三年の棟札、宇部市棚井の東隆寺蔵の南嶺和尚道行碑などにも物部姓で、家紋は輪違いと思われる。
 子孫・所領は長門国美祢郡や周防の国にもわたり、系図には代々「大夫」とし、武景は「押領使・惣追捕使ハ当家重代ノ所職也」とある。代々、棚井にいて武士化したようだ。平安時代末ごろより、厚狭郡の東を厚東と俗称したので、厚東氏と名乗った。
 『源平盛衰記』に「平家年来の侍候人」とあるが。一の谷の合戦後源氏に属し、武景は院方に参じ、弘安の役には武仲が豊前国小倉に出陣している。
 元弘三年(1333)武実は、長門国が長門探題の配下にあったことから、当初は鎌倉幕府に与してたが、後醍醐天皇の綸旨を奉じて長門深題攻めに来た石見の高津入道道性の勧めに応じて探題を奔らせた。
 翌建武元年以降長門国守護となり、南朝、続いて北朝へと従った。その後四代が同国の守護となって北朝に従っていたが、南朝方の大内弘世によって同国の守護職を遂われることとなり、さらにそれを室町幕府が追認したことから征西将軍宮方に転じた。しかし、九州探題今川了俊によって南朝勢力が衰退すると共に滅亡した。
 鎌倉時代から分流が多く、特に一族の富永氏は南北朝時代に守護代として厚東氏を補佐した。

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■参考略系図