小早川氏
三つ巴 (桓武平氏良文流) |
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桓武平氏土肥実平の後裔といわれ、嫡流筋の沼田小早川氏は”平”の字を通字としていた。つまり相模国早河庄土肥郷の土居実平の子弥太郎遠平が小早川氏を称しており、実平・遠平父子が頼朝の伊豆旗揚げ以来従って功を挙げ、実平が備前・備中・備後の守護となり、小早川氏の中国地方進出のきっかけを作った。子遠平は安芸国沼田庄の地頭職を与えられ、ここを本拠とする沼田小早川氏が生まれたのである。
その後、承久の乱で小早川茂平は鎌倉方として軍功を挙げ、新たに竹原庄の地頭職を与えられた。そこで茂平は嫡男雅平を沼田の地頭職として沼田小早川を相伝させ、雅平の弟政景に竹原庄の地頭職を与え、これを竹原小早川とするようになった。こうして、小早川氏は沼田と竹原の二家に分かれたのである。
竹原小早川家の方は、始祖政景の一字「景」を通字として代々続くことになった。こうして惣領沼田小早川氏を中心に、庶子家が続々とうまれ、宝徳三年(1451)、有名な「小早川本庄新庄一家中連判状」が作られるのである。これに記された梨子羽・舟木・小泉・乃美・清武など名字の地名によって十五世紀ごろの小早川氏の勢力範囲が知られるのである。
室町時代の末になって、竹原小早川氏の興景に子がなく、毛利元就の三男隆景を養子にするということがあった。毛利氏の圧力によることはいうまでもないが、沼田小早川においても当主繁平が盲目ということで、両小早川家の間で相談があり、繁平の妹を隆景に配することにより、両小早川家の合体がはかられたのである。
こうして隆景は、二つに分かれていた小早川をひとつにし、その宗家を継いだことになる。以来、吉川を継いだ
兄元春とともに、毛利隆元・輝元をもりたて、俗に毛利の両川といわれるようになったのである。隆景は安国寺恵瓊の
仲介で秀吉に接近し、天正十三年の根来・雑賀一揆の征伐以来、秀吉に属して軍功を積み、その信任を得て五大老の
一人となった。
■参考略系図
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