北条氏
一文字に三つ星
(大江姓毛利氏族)


 大江姓毛利氏の一族。鎌倉幕府初代公文所別当大江広元の四男季光が相模毛利庄を領して毛利氏を名乗った。季光は宝治元年の三浦氏の乱に荷担して、討死したが、季光の四男経光はそれまでに地頭職をもっていた越後佐橋庄にいて乱に関与しなかったため、毛利氏に残された佐橋庄と安芸吉田庄を領することになった。両庄は経光から次男時親に伝えられたが、南北朝の争乱が始まると、時親は安芸で足利方として活動していた曽孫元春に家督を譲って吉田庄に下り、越後で南朝方として行動していた時親の子貞親や貞親の三男親衝も足利方に転じて安芸に移った。
 この結果、越後には貞親の次男と思われる道幸が残った。道幸は佐橋庄を嫡子元豊に、鵜河庄安田条を次男憲朝に譲った。憲朝の系統は以後安田氏を称した。
 元豊の後の系譜は不明な点が多いが、北条の「専称寺過去帳」には道幸のあと、時元(貞親の従兄)の子治良(系図では経高)が継ぎ、以後下記系図のように相伝したという。室町時代に本拠を南条から北条に移し、北条氏を名乗った。
 天文二十三年(1554)北条高広は武田信玄に応じて上杉謙信に背いたため、翌年、謙信に北条城を攻められて降伏。以後、高広は謙信から重んじられ、奉行や七手組隊頭の重職に任じられ、さらに上野国厩橋城代となり関東経営に当たっている。謙信が高広を許したのは、その力量とともに少年時代国主に擁立してくれた豪族の一人だったからだろう。
 謙信の死後、天正六年にはじまる御館の乱では、景虎方に属して上野国から北条城に帰り越後各地を転戦したが、翌年、景虎が戦死、北条城も落ちた。しかし、高広は甲斐武田氏の仲介もあって天正十一年許されて、上杉景勝の家臣に復した。

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■参考略系図