吉良氏
二つ引両 (清和源氏足利氏流) |
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清和源氏足利氏流で、今川氏などと同族である。三河吉良氏、武蔵吉良氏、土佐吉良氏がとくに知られている。鎌倉時代のはじめに、足利左馬頭義氏が、九条家領三河くに幡豆郡吉良庄の地頭になったのが始めという。
義氏の子長氏は吉良庄西条に住み、西条吉良の祖となり、この系統がそのまま三河に定着し、三河吉良氏の祖となった。一方長氏の弟(兄?)義継は吉良庄東条に住んで、東条吉良氏と呼ばれたが、のちに奥州四本松に移り奥州吉良氏、さらに武蔵に移って武蔵吉良氏となったのである。もっとも義継が奥州四本松に下向したという確かな記録があるわけではない。
足利尊氏が新たに奥州探題として吉良貞家・畠山国氏の二人を多賀国府に下向させ、奥州の経営を一任したのは貞和二年(1346)のことである。貞家は文和二年(1353)までその任に当たっていた。貞家の後を継いだのが治家で、上野国飽間郷に移って鎌倉公方に仕えるようになった。成高に至り、足利持氏から武蔵国荏原郡世田谷を賜わり、世田谷に居住するようになったという。
成高は、太田道灌からも「吉良殿様」と尊称されていたことが知られ、その地域に一大勢力に成長していやことが明かである。また成高は道灌に協力して江戸城で奮戦したことが「太田道灌状」に拠って知られる。戦国武将であったことがここにみてとれる。
その後、武蔵には後北条氏の勢力が進出してきた。成高の子康頼は、北条氏綱の娘を娶り、後北条氏と姻戚関係を結ぶことによって家を保ったのである。事実、戦国期の吉良氏はさきの成高の軍事行動以外、史料の上で合戦に参加したという微証がまったくない。戦国大名と呼ぶにはほど遠い「戦場に臨まない武将」であった。 |
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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