加藤清正 家
藤原北家道長流と称している。新井白石の「藩翰譜」では、一説にいうとして「御堂殿の御裔の中納言忠家の次男正家の十代の後、二郎清方が子因幡守清信、尾州犬山び住し、斎藤道三に属す、織田殿と戦いし時討死す。其の子弾正清忠、同国愛知郡中村に住し、三十八歳にして死す。三歳の幼子あり、虎之助と云ふ、これ清正なり。母は秀吉の母と従姉妹なり」と記されている。 清正以前のことは、のちの創作によるものと思われ、秀吉と同じ尾張国中村の農民の子だったのが、藤原北家につながる系図を作り上げたものだろう。 清正は、五歳のとき、母につれられて近江長浜城の秀吉のもとを訪れ、そこで養育され十五歳で元服し、秀吉から百七十石を与えられたという。天正十一年の賤ケ岳の戦いでは「七本槍」の一人に数えられ、三千石を与えられている。同十五年九州征伐に従軍。翌年、佐々成政改易のあとをうけて肥後半国二十五万石を与えられている。 関ヶ原合戦では東軍に属し、本国肥後で、西軍方の小西行長・立花宗茂らの城を攻め、戦後、肥後一国五十二万石の大名となり熊本城を築いている。ところが、子忠広のとき、家中で内紛があり、さらにその子光正の不行跡を理由に改易されてしまった。 ■参考略系図 |