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加藤氏
桔 梗(加藤 清正)
蛇の目(加藤 嘉明)


 加藤氏は加賀の藤原の意とされるが、伊勢発祥の加藤氏が多い。これは藤原氏秀郷流とされているが異流も多い。 戦国時代、豊臣秀吉に仕えた加藤嘉明・加藤清正が有名である。

加藤嘉明 家

 加藤嘉明を出した加藤氏は藤原氏利仁流といわれている。鎌倉幕府草創の臣として有名な加藤次景廉の後裔という。景恒の代まで武田氏に仕え、その子景俊の時に三河国に移ったという。ところが「寛政重修諸家譜」には「加藤左馬丞朝明。清康君に奉仕し、三河国加気郷を領して加藤を号す。長男加藤孫次郎教明、広忠卿・東照宮につかえたてまつり、永禄六年一向門徒に一味し、のち三河国を退去す」としるしているのである。
 さて、教明は三河国を出奔し、のち秀吉に仕えている。子嘉明も秀吉に属し、播磨国三木城攻めで軍功をあげ、さらに天正十一年の賤ケ岳の戦いでは「七本槍」の一人に数えられ、三千石を与えられている。以来、秀吉の領国拡大とともに出世し、小田原征伐や朝鮮出兵では水軍の将として活躍している。
 関ヶ原の戦いは東軍に属し、戦後、伊予松山二十万石に加増転封されている。のち、会津若松四十万石にまでに なったが、子明成のときに御家騒動が起こり、改易処分とされた。しかし、その子明友に近江水口二万石が与えられ 家名は存続した。

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■参考略系図
      

加藤清正 家

 藤原北家道長流と称している。新井白石の「藩翰譜」では、一説にいうとして「御堂殿の御裔の中納言忠家の次男正家の十代の後、二郎清方が子因幡守清信、尾州犬山び住し、斎藤道三に属す、織田殿と戦いし時討死す。其の子弾正清忠、同国愛知郡中村に住し、三十八歳にして死す。三歳の幼子あり、虎之助と云ふ、これ清正なり。母は秀吉の母と従姉妹なり」と記されている。
 清正以前のことは、のちの創作によるものと思われ、秀吉と同じ尾張国中村の農民の子だったのが、藤原北家につながる系図を作り上げたものだろう。
 清正は、五歳のとき、母につれられて近江長浜城の秀吉のもとを訪れ、そこで養育され十五歳で元服し、秀吉から百七十石を与えられたという。天正十一年の賤ケ岳の戦いでは「七本槍」の一人に数えられ、三千石を与えられている。同十五年九州征伐に従軍。翌年、佐々成政改易のあとをうけて肥後半国二十五万石を与えられている。
 関ヶ原合戦では東軍に属し、本国肥後で、西軍方の小西行長・立花宗茂らの城を攻め、戦後、肥後一国五十二万石の大名となり熊本城を築いている。ところが、子忠広のとき、家中で内紛があり、さらにその子光正の不行跡を理由に改易されてしまった。

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■参考略系図