亀井氏
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流/穂積姓鈴木氏流?) |
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亀井氏は宇多源氏佐々木氏の支流といわれている。すなわち、佐々木秀義の子で出雲守護・隠岐義清の孫頼清にはじまるという。しかし、同じく佐々木氏の分かれとしながらも、佐々木義清の孫時清の子が頼清であるという説もある。また、紀州の鈴木氏の一族で、源義経に仕えた亀井六郎重清の後裔とするものもある。いずれにしても、亀井氏の発祥は、不詳としかいいようがない。
なお、亀井氏は、はじめ湯氏を名乗っていたが、茲矩のときに亀井氏に変えたという。そのいきさつについては、尼子氏の重臣山中鹿助幸盛が、茲矩の武勇を感じ、外舅亀井氏の名跡を継がせたものだという。
茲矩は尼子氏の家臣であったが、尼子氏が滅んだあと秀吉に仕え、天正九年(1581)の時点ですでに因幡国の鹿野城主となり一万三千五百石を与えられている。なお、そののちの恩賞で秀吉から他国を与えようといわれたとき、「我日本においてのぞむところなし、ねがはくは琉球国をたまはらむ」といって、秀吉から琉球守の受領名をもらったことは有名。
のち小田原征伐・朝鮮出兵にも戦功をああわし、伯耆国の日野銀山の開発にもたずさわっている。
関ヶ原の戦いのときは東軍に属し、戦後、三万八千石に加増され、石見国津和野を領した。あとは子の政矩が継いで、
幕末にいたっている。
■参考略系図
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