伊集院氏
丸に三つ十字
(島津氏支族)


 薩摩国日置郡伊集院村から出た島津氏の一族。島津忠時の子忠経、その子俊忠は伊集院地頭職を得て、伊集院氏を名乗った。
 応永年間(1410頃)、頼久は本家島津豊久と連戦、知覧川辺、谷山を得たが、のち谷山城に拠って豊久に敗れ、子倍久は忠良に従う。倍久の孫忠朗は忠良を補佐して、大永七年島津勝久の権臣島津実久の伊集院城・谷山城を攻め、天文五年、実久の家臣町田用久らを伊集院城に攻撃する。同八年、忠良は実久の本拠加世田を奪い追放した。
 同十年伊集院忠朗は、島津貴久の命により島津忠広・本田薫親・北郷忠相らに攻められた樺山幸久の咲隈城を守備し、清水新城の薫親を破り、大隅国日当山を落とし、姫木城の薫親を降した。貴久は乱後忠朗を姫木において、島津氏の大隅経略の布石とした。
 忠朗の孫忠棟(幸侃)は島津義久の老臣となり、天正三年(1575)肝付兼道の日向福島・志布志両城を救援した。同十一年、義久は忠棟を肥後に派遣し、八代の守将として有馬氏救援を計画し、また肥後花山に砦を築き、同十三年にほぼ肥後をおさめることに成功した。
 さらに忠棟は、筑後大友方の岩屋城・宝満城を落城させ立花城に迫った。しかし、天正十五年、豊臣秀吉軍の九州下向で、秀長のもとに人質として入り、のち秀吉より寵せられ大隅一郡を与えられ、文禄四年には、日向都城八万石余を宛行われた。
 しかし、伊集院氏の勢力増大を恐れる島津本家の忠恒(家久)は、慶長四年山城伏見の亭で、忠棟を謀殺した。子忠真は、父討たるの報に接し、一門と共に日向都城で反乱の軍を挙げた。この乱は家久が下向し討伐に対ったが鎮定できず、家康の仲介でやっとおさまるほどの勢いをしめした。が、忠真は同七年日向国野尻で忠恒によって討ちはたされた。

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■参考略系図