伊東氏
十曜・庵に木瓜
(藤原南家為憲流)

 藤原南家武智麻呂の後裔に維幾が出、その子為憲は木工頭だったことから工藤を称した。その曽孫にあたる維職が、伊豆横領使に任じられて、伊豆国伊東庄に住み、伊東氏を名乗ったという。その後祐家・祐継の兄弟で二家に分かれている。本流の方は、そのまま伊東を本貫地として、戦国時代、北条早雲の伊豆入国にとともにこれに従い、後北条氏の家臣となった。
 一方祐継系の伊東氏は、祐時のとき、日向国の地頭職を与えられ、その子祐朝が日向に土着し、日向伊東氏の祖となった。一説に祐経が源頼朝から日向国のうち、県庄・富田庄・絹分庄・田島庄などの地頭職を与えられ、死後、嫡男の祐時に譲られたともいう。
 祐持のとき、足利尊氏に従って戦功をあげ、都於郡三百町を恩賞として与えられたという。伊東氏累代の居城として知られる都於城は祐持によって築かれたものである。
 祐堯のころから次第に強大となり、義国の代になると、飫肥城をめぐる島津氏との争いが頻繁に行われるようになり、特に文明十六年と翌年の戦いは戦史に残っているほどだ。その後義祐の代になってからもたびたび飫肥城の争奪戦が伊東・島津両氏の間で繰り広げられ、ついに永禄十一年にいたり、島津忠親は城を伊東氏に明け渡した。そこで義祐は子の祐兵に守らせた。この祐兵が義祐の跡を継いで、戦国大名伊東氏の中心となる。
 祐兵は天正六年、大友宗麟と連合して島津義久・家久と耳川に戦っている。島津軍と大友・伊東連合軍は耳川だけで なく、名貫原・小丸川畔の高城でも激突している。この戦いで大友軍の先遣隊は島津軍に大敗北を喫し、結局、 祐兵は上京し秀吉に仕えた。秀吉の九州平定後、日向・肥後のうちに所領を与えられ、はじめ曽井城、のちに飫肥城に 復帰して五万石を領することになった。関ヶ原の合戦では、子祐慶が佐土原城を攻めて、本領を安堵されている。
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■参考略系図



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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