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石田氏
大一大万大吉/九曜
(桓武平氏三浦氏流?)


 石田氏は石田三成が出てはじめて有名となった家である。その先祖については、桓武平氏三浦氏流石田氏ともいわれるが、その証明となるものはなにもない。
 三成の出身地は、近江国坂田郡北郷村大字石田、すなわち、現在の滋賀県長浜市石田町である。石田郷の郷名を名乗るものであることが知られる。三成の父は藤左衛門とも左吾右衛門ともいわれているが、普通には、三成立身後に名乗ったといわれる正澄の名が知られている。
 三成が父正継のために京都の妙心寺境内に建てた寿聖院の過去帳には、正継の父は前陸奥入道清心、祖父は前蔵人入道祐快とし、法名のみ伝わり、実名は不明であるが、入道名を持つあたり、一般の農民でなかったことは確かである。
 正継の次男ということもあって、幼時、観音寺に預けられ、そこで秀吉の目にとまり仕官のきっかけを得たといわれている。
 はじめ三也といったが、のち三成とし、秀吉に従って各地に戦功をあげたが、軍事面よりもむしろ文官としての面に能吏ぶりを発揮し、九州征伐の兵站奉行、朝鮮出兵の舟奉行、さらに太閣検地などでその手腕は高く評価された。秀吉の五奉行の一人として秀吉の内政面の実質的な担当者であったのである。
 文禄四年(1595)、近江国佐和山城主となり、近江国内の浅井・伊香・坂田などで十八万石、その他同国の秀吉直轄領七万石の代官となり、同時に父正継および兄正澄にも所領が与えられた。
 秀吉死後は、徳川家康が勢威を振るうようになったため、毛利輝元・宇喜多秀家らと謀り、慶長五年(1600)七月、家康との対決に立ち上がり、ついに九月十五日の関ヶ原の戦いに敗れ、敗走中、伊吹山中で田中吉政の手に捕えられ、京都六条河原で首をはねられた。
 三成の嫡男隼人正重家は、まだ十二・三歳の少年であった。三成挙兵のときには大坂城に人質としてあったが、三成が敗れて行方不明になった段階で、乳母らに伴われて、京都妙心寺の寿聖院に入った。そして寿聖院主伯浦恵稜の手によって剃髪し、仏門に入った。
 家康も、仏門に入った重家を殺すことまではせず、死を免じられたのである。また、弟の源吾の子孫が津軽に続いたという。

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■参考略系図