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福島氏
沢 瀉
(出自不詳)


 新井白石の『藩翰譜面』では、「福島左衛門大夫源正則は、尾張国の住人福島与左衛門某が嫡男なり。初は豊臣太閣、播磨国の守護たりしとき、正則童なりしより側近く召仕はる。正則は豊臣家にゆかりの人といふ。いまだ詳らかなることえお知らず」としている。
 ところが、『寛政重修諸家譜」では、藤原氏支流のところで福島氏をとりあげ、「家伝にいわく、もとは平氏たり。左衛門大夫正則、豊臣太閣より豊臣氏羽柴の称号を与へられ、のち藤原氏にあらため、福島に復す。云々」とし、正則の父正信の註記には、「尾張国海東郡花正庄二寺邑に住し、のち豊臣太閣につかふ。妻は豊臣太閣秀吉の伯母木下氏」と記している。しかし、その確証はない。
 また、後北条氏の一族に迎えられた相模玉縄城主北条綱成(旧姓福島)のもとで養育されたという所伝もあるが、実際あったことかどうかについては明かではない。
 いずれにしても、正則の代から頭角をあらわした家であることはまちがいなく、天正十一年(1583)の賤ケ岳の戦いで一番槍の功名をあげ、秀吉から五千石を与えられている。
 以後、各地で戦功をあげ、伊予湯月城主十一万石余、尾張国清洲城二十四万石を経て、関ヶ原の合戦で東郡に属して活躍し、戦後、安芸広島四十二万六千石を領して広島城主となる。
 ところが、のち、広島城の無断修築のかどで改易される。これは本多忠純の謀略にはまったといわれるが、親豊臣系の大名であった福島正則は、いずれ除かれる運命であったようだ。子正利が三千石で寄合に列したが、嗣子なく断絶した。

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■参考略系図