菱刈氏
丸に九枚篠 (藤原氏北家頼長流) |
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菱刈氏は藤原氏の苗裔である。藤原頼長は、保元の乱に崇徳上皇方に属し、最高の謀主であった。乱は崇徳上皇方の敗北となり、頼長は流れ矢にあたって死に、乱後、頼長の子師重・兼長らは遠く流刑になった。
藤原隆長の孫に当る重妙も幼くして比叡山に入ったが、後白河天皇の代に院宣を賜って菱刈・太良両院七百町歩を重妙に賜った。
建久四年、源頼朝の下文によって菱刈・太良両院が安堵されたので、その弟師重とともに建久五年菱刈院に下向した。
重妙の弟師重は、菱刈院に到着してから入山を分領して入山氏を称した。重妙の庶長子重隆は馬越を分領、三男の重茂は曽木を領して、それぞれ馬越氏、曽木氏の祖となった。
菱刈氏は伊佐郡の北部に威を振るう牛屎氏に相良氏と連衝して対抗、牛屎氏が南朝のために奔走するや、菱刈氏は武家方に味方してついには牛屎氏を駆逐して伊佐郡全体に号令した。
下って戦国時代には島津氏と戦い、弘治三年(1557)菱刈重豊は島津貴久と合戦し敗れている。永禄十年(1567)には菱刈隆秋が甥鶴千代を擁して、大隅大口.馬越等の諸城に拠り島津義久に対抗した。隆秋は肥後の相良義陽と結んで、翌年正月。義陽の援軍を受けて、島津義弘を堂崎に破った。以降、隆秋は島津軍と戦い続けたが、永禄十二年大口戸神尾の戦いで破れ、島津氏に和を乞うた。義久は菱刈鶴千代に太良院の地を与えた。
その後天正二年(1574)、菱刈重広のときに島津氏に対して異心を抱いた角により、その本城曽木城を奪われ、日置郡の伊集院神殿に移された。
■参考略系図
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