蒲生氏
三つ巴・対い鶴 (藤原氏秀郷流) |
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近江国蒲生郡には、古代蒲生稲置がおり、相当の名族で、蒲生郡開拓の主体であったとみなされている。蒲生氏は、この蒲生稲置の後裔と考えられる。が、一般には秀郷流藤原氏、すなわち俵藤太秀郷の後裔とされている。おそらく、いつの時代にか蒲生稲置の後裔が、藤原姓を名乗るようになったのだろう。
いずれにせよ、藤原秀郷が、はじめ近江国田原に住んで田原藤太と称し、秀郷の次男千晴より六代の子孫惟俊が蒲生郡を賜わり、蒲生太郎を称したのが始まりといわれる。
その子俊賢は源頼朝に仕え、俊賢から六代の孫秀朝が、建武年中(1334-1338)足利尊氏に従って軍功があった。
貞秀の時、嫡男秀行は惣領ということで将軍家に、二男高郷は佐々木六角氏に、三男の音羽秀順は細川氏にそれぞれ出仕させたという。ところが秀行死後、その子秀紀が跡を継いだが、高郷との間に内紛が生じた。この争いは六角氏と将軍家の争いを根底に持ちながら、六角定頼の家臣となっていた高郷が弟の秀紀を攻めたもので、大永三年(1523)三月のことであった。六角定頼は自分の家臣である高郷の側にたち、秀紀の音羽城を攻め、以後、音羽城は廃城となった。戦国大名による城割りの先駆とされるものである。
以後、蒲生氏の嫡流は高郷の系統へ継がれていった。このころの名乗りをみれば、定秀は六角定頼の"定"であり、賢秀は六角義賢の"賢"であり、六角氏の家臣となっていたことがうかがわれる。賢秀は六角義賢の六老臣の一人に数えられるほどだったという。しかし、信長の六角攻めに際し、賢秀は妹婿神戸蔵人のはからいで、信長に仕えることになった。賢秀の子氏郷も幼少より信長に仕え、信長の娘と結婚するほどに信頼された。
信長死後、氏郷は秀吉に従い、たびたびの戦功によって天正十二年には伊勢松阪十二万石、さらに天正十八年の小田原攻めの功によって会津若松四十万石に封ぜられた。
もっとも、会津に移封が決まった時、氏郷はさすがに落胆の色を隠せず、辺境に置かれた不運を嘆いたという。たとえ小国でも西国筋の領土を与えられることが当時の武将の願いであったことを示す話である。
氏郷はその後、葛西・大崎一揆の鎮圧や、南部の九戸政実の乱などに持ち前の軍略を遺憾なく発揮し、秀吉から
与えられた重大な任務を全うしたが、文禄四年(1595)四十にならずして没してしまった。氏郷の死後、秀行が家を
継いだが若年のため、宇都宮十二万石に移されたが、関ヶ原の功で会津六十万石に返り咲いた。しかし、秀行の死後、
子忠郷も没し、次男忠行にも嗣子なく蒲生家は断絶してしまった。
■参考略系図
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その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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