小田氏
洲 浜
(藤姓宇都宮氏流)


 藤原北家八田流とされる。関白藤原道兼の三世の孫宗円が宇都宮氏を起し、子宗綱は八田権守と称した。宗綱の子が八田知家である。宇都宮の宗家を継いだ宇都宮朝綱の弟で頼朝に重く用いられ、常陸の守護に任命されている。
 一説に、この知家は頼朝の弟といおう所伝があり、「宍戸系図」などでみると、知家の母は宇都宮朝綱の女で、知家は源義朝の十男として生まれたという。もちろんこうした所伝は後世の創作であろうが、頼朝との濃厚な関係をうかがうのに十分である。
 知家の子が知重で、知重の弟宗家の系統が宍戸氏となる。知重の系統がそれから小田氏を名乗ることになる。知家が常陸守護に任じられて以来、鎌倉次第を通してその職を世襲している。
 ところで、鎌倉期における小田氏の勢力範囲は、筑波・信太の二郡で、新治・茨城・行方・鹿島の諸郡は常陸大掾職を世襲してきた大掾氏の勢力範囲で、那珂・久慈・多賀の諸郡は佐竹氏がおり、常陸守護とはいっても小田氏の威令の届く範囲に限界のあったことはいうまでもない。
 しかし、守護のもつ重みは無視することはできなかった。たとえば、元弘二年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画が失敗した時、その計画に参画していた万里小路藤房が常陸に流罪となり、小田城にいた小田治久に預けられるということがあった。このことが、小田治久のその後の行動を決定づけたことは疑問の余地がない。以後、小田治久は南朝方となり、常陸における南朝方の中心にすえられたのである。
 治久は、当時の守護級武士としては珍しく南朝方で、北畠親房が常陸に上陸するや、親房を小田城に迎えている。親房が「神皇正統記」を執筆したのはこの小田城でであったという。
 しかし、暦応四年、興良親王を迎えて攻め寄せる高師冬勢を篭城戦によってもちこたえていたが、ついには降伏した。師冬は小田治久の常陸守護職を奪い、これを佐竹氏に与え、所領を削減してしまった。
 治久の子孝朝の時、下野攻めに軍功を現わして信太庄を与えられ、上杉禅秀の乱に当たっては、孝朝の孫持家が禅秀方に属したが、禅秀没落後、足利持氏に従い本領を確保している。
 小田氏が日本史上重視されたのは、南北朝時代の治久と戦国期の氏治の二人である。氏治はいわば衰退期の当主ということになる。、小戦国大名の常として、有力大名との同盟を策するが、後北条・結城の連合軍に敗れ、小田城を逃げ出している。その後、佐竹義昭と結び、北条氏康と手を組んだ。
 しかし、結局、元亀三年の大晦日、城中で連歌会を催しているところを、太田資正に攻められて落城してしまった。

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■参考略系図