新発田氏
三つ星
(宇多源氏佐々木氏加地氏流)
・越後佐々木氏の代表紋として掲載。


 宇多源氏佐々木氏の流れをくむ加地氏の一族。承久の変で、佐々木信実は越後加地庄に拠る深匂家賢を破った功で、同庄の地頭職を得たという。しかし、『尊卑分脈』によると信実の父盛綱が加治氏を称したとあるから、盛綱の代に加治庄との関係が生じたものと思われる。
 新発田氏は加治氏の庶流で加地庄内新発田に住して在名を名乗ったものであるが、分出の時期については確証がなく、盛綱の孫綱重、あるいは資実の子孫などと伝える。その後の系譜も明かではない。
 戦国時代には惣領家加地氏をしのぐ勢いを示し、享禄三年から数年にわたって上杉氏の一族上条定憲が長尾氏に叛した上条の乱で、新発田綱貞は他の下越国人(揚北衆)とともに上条方に与して、長尾為景と戦ったが、のちに上杉謙信が武威を振るうようになると、その麾下に入った。
 天正三年(1575)の上杉軍役帳によると、新発田長敦は鑓百三十五丁とある。これは同帳で九位に当たり、宗家の加治彦次郎や一族の五十公野右衛門尉を上回っていた。
 謙信没後に起きた御館の乱では景勝方として活躍したが、乱が終息して間もない天正九年に、新発田重家は一族の五十公野氏や景虎方残党と語らい、織田信長とも連絡をとって、上杉氏に背いた。
 上杉軍との戦いは翌年から始まり、新発田氏が抑えた新潟津や、本拠新発田城をめぐって激しい戦いが展開されたが、天正十四年に新潟が抜かれ、翌年には五十公野城、ついで新発田城が落ちた。このとき、重家を始め一族は残らず討滅され、新発田氏の名跡は絶えた。

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■参考略系図