越後中条氏
酢漿草
(桓武平氏三浦氏流和田氏族)
初めは三浦氏の代表紋である三つ引両を用いたが、南北朝のとき足利尊氏に属して功があり、 酢漿草をその証しとして賜り、以後、それを記念して酢漿草に替えたという。


 越後の中世武家。奥山荘を領した三浦和田氏の惣領家。和田氏は三浦大介義明の孫で、杉本太郎義宗の子義盛が相模国三浦郡和田に住して和田を称したのに始まる。義盛は左衛門尉・侍所別当に任じるなど、鎌倉幕府の功臣として重責を担い、一族繁栄の木曽を築いた。
 建保元年(1213)の和田氏の乱で一族のほとんどは滅亡し、わずかに一人、幕府に味方して和田氏の家名を断絶させなかったのは、重茂の子、次郎実茂であった。しかし、宝治元年(1247)の三浦氏の乱で三浦泰村に従って父子ともに討死し、和田氏の主流は滅亡した。
 その中で、実茂の弟時茂だけはいかなる理由か「赦免の教書」を与えられ、名字を後代に伝えることとなった。時茂は相模国鎌倉郡南深沢郷津村の屋敷田畠と越後国奥山荘地頭職の地頭職を領有し、その子孫は「三浦和田」と称し手中世の越後に勢力を築いた。
 三浦和田一族は、庶子への分割相続によって、荘内の各地は一族が分領する形態をとった。南北朝時代に入ると惣領による一族統制力が弱体化、庶子家がおのおの所領を名字の地として分立し、黒川・羽黒・築地の各氏が成立した。惣領家も室町中期以降中条氏を称して、黒川氏などと抗争しつつ築地氏を被官化するなどして中世後期の動乱に対した。
 戦国時代の当主は定資・藤資で、藤資は、永正四年(1507)長尾為景が上杉房能を殺し、顕定と戦うと為景に味方し、翌五年にかけて本庄房長、色部昌長らと戦い、色部氏の平林要害を破っている。
 同六年、為景が越中に逃れるや黒川氏とともに越中へ赴きのち帰国、為景勝利ののち、奥山庄内の関沢・金山等を恩賞として授かった。同十年・十一年の永正の乱でも為景に属し、その勝利に貢献した。しかし、亨禄・天文の乱では為景と対立した。同八年、守護定実の養子に伊達種宗の子時宗を迎えんと策し、これに反対する色部しらと争い、養子の策は失敗した。
 上杉謙信政権下ではこれに属し、永禄四年(1561)信州川中島合戦に参陣、謙信から感状をうけた。
 藤資のあとは謙信により、その娘に吉江景資の次男景泰をあわせて中条氏を継がせた。景泰は天正六年(1578)、謙信死後の御館の乱では景勝に属し、反景勝派の同族黒川氏に本城鳥坂城を奪われたが、のちに復したがその本領に戻れないまま、同九年から越中魚津城在番を勤め、織田信長の将柴田勝家と戦い翌十年落城戦死した。慶長三年(1598)、上杉氏の会津移封に伴って奥山荘を去っている。

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■参考略系図