土居氏
折敷に三の字
(伊予河野氏庶流)


 伊予国の豪族河野氏の支族。蒙古襲来に活躍した河野通有の弟孫九郎通成が、伊予国久米郡石井郷南土居に住したのに始まる。元応年中鎌倉幕府が国内地頭御家人らの結番を以って海上警護を実施した際、伊予国ではこれを指揮する国内「有名ノ仁」両名のうちに土居彦九郎がみえる。
 通成の子通増は、元弘三年(1333)閏二月後醍醐天皇に味方して挙兵し、同族得能氏や忽那氏と連合して同年三月、宇都宮貞泰の根来山城を攻略し、ついで星岡で長門探醍北条時直を撃退、さらに同年五月長駆して讃岐国鳥坂で鎌倉幕府の与党を破った。また、後醍醐天皇の伯耆よりに帰着を兵庫に迎えた。
 建武の中興が成ると、従五位下伊予権介のち備中守となった。建武二年二月、風早郡に反旗をあげた赤橋重時を倒している。
 建武の新政が破れ、河野通盛が足利尊氏から河野氏の惣領職を認められ、帰国して伊予の南朝方に攻撃を加えたころ、通増は得能氏らと新田義貞軍に属して京都にあったが、以後も延元元年(1336)入京した尊氏を迎えての摂津豊島河原の戦、九州より東上した尊氏軍との兵庫での合戦、尊氏の比叡山攻囲戦などに終始義貞の指揮下にあった。
 義貞が南朝方勢力再建のため北国に赴くと、これに従い、越前の荒乳の中山で斯波高経の襲撃を受けて戦死した。
 その子通重は叔父通世や忽那義範と提携して、伊予国南朝方として重きをなしたが、延元四年周防国大島の加室で戦死した。通増の弟通景も興国三年(1342)細川勢と戦い戦死している。以後、その家名は戦国時代の河野氏家臣団のなかにみられるばかりとなった。

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■参考略系図