足利氏
足利二つ引(清和源氏義家流)
・五七の桐 |
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足利氏は清和源氏、源義家の孫義康が下野国足利庄によって、足利氏を称したのに始まる。これより先、藤原秀郷の流れが足利の地を開発して土着し、足利大夫と称していた。義家の子義国が足利成行の一族基綱の女を娶って生まれたのが義康であるといわれる。藤姓足利氏と源姓足利氏とは、やがて競合するようになり、源平合戦で平氏方についた藤姓足利氏は没落した。
鎌倉時代は代々北条氏と縁戚関係を結び、義氏は三河守護となり、その子泰氏は上総守護をも兼ねて、所領は下野・三河・丹波・美作・上総・下総に散在した。これにより一族は大いに発展していった。
元弘の役で足利尊氏は北条氏に叛き、建武新政の成立に協力したが、のち新田義貞討伐を名目として反旗を翻し、翌年光巌天皇を擁立して京都に入り、室町幕府を開いた。後醍醐天皇は吉野に退き、これより五十七年間にわたる南北朝時代に入った。
十五代義昭の代、織田信長によって京都を追われ、室町幕府は滅んだ。
室町将軍家とは別に、鎌倉公方家がある。尊氏の子・基氏に始まり持氏の代に一旦滅亡、持氏の遺子成氏が家を継いだ。その後紆余曲折を経て天正十一年義氏の代に嗣なくして断絶した。しかし、豊臣秀吉がその名跡を惜しみ、義氏の娘と一族の国朝とを結婚させて、義氏の後を継がせた。国朝は下野塩谷郡喜連川に住み、喜連川氏を称した。その子孫は江戸幕府から五千石を与えられ、十万石の格式で遇せられた。
■参考略系図
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