秋月氏
三つ撫子 (大蔵氏族) |
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秋月氏は大蔵氏を遠祖とする。大蔵氏は後漢霊帝の玄孫が、来朝し帰化したものの後裔といわれる。大蔵春実は天慶三年、朱雀天皇より錦の御旗および天国の短刀を賜わり、小野好古らとともに藤原純友を追討した。その勲功によって西征将軍となり、御旗に大和撫子の紋があったことにより、大和撫子をもって家紋としたという。
種朝のころ、中国・九州が騒乱、少弐・筑紫・大友三家が秋月城を襲い攻めた。種朝は城を出て一戦を遂げ、三家の大軍を突き破り、二千余人を討ちとって、大勝利をおさめている。種時も、少弐・筑紫らが筑後国中の兵を率いて領内を掠略するのに、筑前国にて合戦し、大いに勝利をえている。
秋月氏の名がもっともあらわれてくるのは、種実のころからである。大友宗麟と戦って討死した父種方の後を継いだ種実は、郎従らを伴って、周防山口に隠れた。山口に毛利氏を頼って三年ののち、家臣らの手によって、秋月城を大友氏から奪還、再び旧地に返り咲いた。永禄五年ころより、毛利氏に与し、その九州進出に尽くして大友氏と戦ったが、十に年ころには大友氏に降っている。
秀吉の九州征伐のとき、島津氏に属していた。しかし、秀吉の大軍に抗するもあたわず、嗣子種長とともに剃髪し、墨染の衣に身を包んで、秀吉の本陣に降り「楢柴の肩衝および国俊の刀」を献上して、本領を安堵された。
文禄の役には、種長が出陣している。関ヶ原の合戦では、西軍に属し弟の高橋元種、肥後人吉の相良長毎らと
美濃大垣城に在って、三の丸を守った。が、寄手の水野勝成に通じ、大垣城を落とさせる。その功によって、
三人は戦後本領を安堵されている。
■参考略系図
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