秋元氏の祖は、『寛政重修諸家譜』には、「今の呈譜に、粟田関白道兼より八代の孫宇都宮掃部助頼綱が男左衛門次郎泰業、嘉禄年中上総国周准郡秋元庄を領せしより秋元を称す−中略−師朝にいたりてつゐに秋元をもって家号にさだむ」と記されている。 『寛政重修諸家譜』に具体的な形で歴代の履歴だ出てくるのは景朝の代からである。景朝は、はじめ元景戸名乗り、武蔵深谷城主上杉憲賢および憲盛に仕え、その重臣のひとりになっていた。 景朝の子が長朝で、天正十八年の豊臣秀吉による小田原征伐のとき秀吉に属し、さらに文禄元年、浅野長政を通して家康に仕えることになり、上野国群馬郡の内において一万石を領し、惣社城に拠った。 長朝の子泰朝は、文禄元年に父とともに家康に仕え、関ヶ原の合戦のときも東軍に属し、のち、大河内正綱・板倉重政らとともに駿府城における近習の出頭人として重く用いられていた。泰朝は大坂の陣においても活躍し、家康が亡くなったときには本多正純とともに霊柩にしたがって久能山に上っている。それだけ、晩年の家康の側近くに仕えていたことになる。 のち、甲斐都留郡一万八千石となる。さらに秋元氏は弘化年間(1844-47)にいたって、上州館林六万石に出世している。 ■参考略系図 |