明智氏
桔梗(清和源氏土岐氏流)

 明智氏は、美濃の土岐氏の氏族で、美濃明智庄にいたことから明智氏を名乗るようになった。戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出現によって広く知られるようになった。しかし、それまでの歴代についてはほとんど明かではない。そもそも明智光秀の父親の名前からして不確定なのだ。
 『尊卑分脈』『続群諸類従』などの系図には、光秀の父を光隆とし、また光綱、また光国として一致しない。もっとも戦国武将に限らず、人名は一代の間に何度も変えることはよく見られる。ここでいう、光隆・光綱・光国は同一人物のことをいっているのかもしれないが、確定的ではない。
 いずれにせよ、それらの系図では土岐一族の明智氏から光秀が出ていることは確実なようだ。が、そうした考え方とは別に光秀を明智の出とはせず、まったく別のところからの出自のものが明智を名乗ったのだというものもある。
 たとえば、進士信周という侍の二男であったとか、若狭国小浜の鍛冶師の二男であったとか、さらには御門重兵衛というものが明智姓を称するようになったとか異説についてはいろいろとみられる。しかし、やはり美濃土岐氏の一族の出であったことは動かせないのではないだとうか。
 光秀は、美濃を出て越前の朝倉氏に仕官する。そこで朝倉氏を頼ってきていた足利義昭・細川藤孝主従と会い、義昭と織田信長の橋渡しを行い、以後二人に仕える形となり、信長が義昭を擁して上洛すると、村井貞勝らとともに京都の庶政に関与し、元亀二年には、近江坂本城主となった。その頃には、義昭との関係はすでに絶たれていた。
 やがて、天正十年六月、本能寺に織田信長を攻めてこれを殺し、信長の嫡男信忠も二条城に滅ぼした。しかし、羽柴秀吉と山崎に戦い、敗れて近江へ逃れる途中、小栗栖というところで、農民の槍によって一命を落としたのである。
 光秀の娘の一人は細川忠興に嫁ぎ、キリシタン洗礼名であるガラシャ夫人の名で知られている。

■参考略系図