二階堂氏
三つ盛亀甲に花菱
(藤原南家乙麻呂流)
山形村濃


 二階堂氏は藤原南家乙麻呂から十一代目の維遠を祖とする。相模・上総・武蔵などに同族が栄え一代勢力をなし、鎌倉時代にはかなりの力を持っていた。戦国期、磐城地方の二階堂氏が、須賀川城に拠って戦国大名に成長していった。
 須賀川二階堂氏が磐城に勢力をもつようになった事典については諸説がある。鎌倉時代はじめ、源頼朝が奥州征伐をした直後に岩瀬郡を与えられたとするもの、室町時代、鎌倉公方足利持氏から岩瀬郡の支配を許されたとするものとに分かれる。現在では、鎌倉時代初頭とするものが有力になっているが、他に、平安時代からとするものもあって、確定的とはいえない。
 鎌倉時代説をとると、その後一時期、二階堂氏は岩瀬郡の所領を取り上げられ、南朝方の結城親朝に岩瀬郡が与えられ、再び、北朝勢力の進展の時点で須賀川地方を回復したということになる。以後、二階堂氏が戦国時代末までその地方に大名領国制を展開するのである。
 ところで、問題なのは須賀川二階堂氏の系譜である。二階堂氏は諸家に分かれたが、そのいづれが須賀川二階堂氏として戦国期の盛義・盛隆に至るかである。鎌倉幕府の奉行をつとめた二階堂時藤の系統とするもの、それとは別に二階堂行綱、あるいは行実の系統とするものがある。天正十七年(1589)の二階堂氏没落後、文書系図紛失後に作成されたとする、時藤系のものが「福島県史」に掲載されている。
 盛義は田村清顕らとしばしば戦い、盛義の子盛隆が葦名氏を継いで一代勢力となったが、伊達政宗と葦名義広の戦いの あった天正十七年(1589)、居城須賀川城を攻められて落城、二階堂氏は滅亡した。

もっと読む


■参考略系図