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家紋と家系、雑感
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●家系尊重の背景
家系と系譜に関しては、現代に生きる我々には想像も及ばない、それぞれの家に関わるさまざまな歴史と思いが凝縮されている。すなわち、古代の氏姓(ウジ・カバネ)にその源流を求めるまでもなく、自分の家をより高貴な出自に位置づけようとする意識が、そこからは感じられる。
現代におけるルーツ探しにしても、平安時代の公家、あるいは鎌倉時代の武家などの子孫として自家の系譜を位置づけようとする例は、身近に数多くみることができる。いわゆる藤原北家なにがし流、桓武平氏なにがし流、清和源氏なにがし流とよばれる系図が、中世に興った武家だけではなく、土地の旧家とよばれる家に家系図として伝わっている。もっとも、その全てを否定するものではないが、鵜呑みにする愚は避けたいところだ。
天皇家、平安時代の公家は別格としても、平安末期に、ひとの手の入らない荒撫地を開拓して、自家の財産としての土地を拓いていった武士の祖先たちは、開発した土地を子孫に伝えるために土地に命を懸け、その権利を恒久たらしめようとした。土地の法律上の所有者である、京都の公家や社寺に対して、その権利を実際の開発者である自分のものにしようとした。その結果として、日本の古代は終焉をつげ、鎌倉幕府というかたちで中世の幕が開けられたことは、歴史が示すとおりだ。
そのような、武士と称される鎌倉幕府の構成員である開発領主たちの系譜ですら、すでに、本来の先祖から離れ、藤原氏・源氏・平氏の末裔などと称している。そこには、被支配者側から支配者側に転じたかれらが、自分の出自を高貴なものにすることが、その支配権の強化に必要であったからだろう。
●系譜を飾る意義
坂東とよばれる現代の関東地方で、坂東武者のなかの坂東武者と呼ばれ、ついには新皇を称した、平将門は桓武平氏の末裔といわれる。しかし、かれの伯(叔)父・従兄弟の関係を伝える系譜ですら、混乱を呈している。そして将門が起こした天慶の乱で、将門を討ちとったことで史上に名を残した田原藤太藤原秀郷はその姓が示すとおり藤原氏の末裔とされる。ところが実際にそうなのだろうか?秀郷の母は、古代からの在庁官人である鳥取氏の出と系譜に記されている。しかい、本当のところは鳥取氏の出自であって、自家を飾るため藤原氏の後裔として位置付けたといったところが妥当と思われる。また、武蔵七党と呼ばれる関東の小武士団横山党・野与党・丹波党などの場合は、それぞれが桓武平氏、横山氏、日奉氏などの後裔と称し、自家の系譜を飾っている。
そこには、かれらの生きた時代に厳然とあった貴種尊重の意識が働いたであろうし、先にも述べたように自家をより高貴な家の流れに位置づけることに、社会的メリットがあったからにほかならない。
時代が下って、鎌倉末から南北朝期に後醍醐天皇方として活躍した伯耆の名和氏、播磨の赤松氏は両家とも村上天皇から出た村上源氏の末裔を称しているが、両家ともその系図を見れば、その祖とされる人物が都から流されてき、土地の豪族の娘と子をなして都に帰っていったとある。ここには貴種流離譚が色濃く感じられる。そして、両家ともその祖とされる人物の後は、あまりにも都合よく人名が並んでいるに過ぎず、系図に記されたひとびとを裏付ける古記録・資料はない。赤松氏の場合、現実的に四〜五代に過ぎない年月のなかに七代もの人物が当てはめられている。つまり、両家の家系図は矛盾に満ち、粉飾にあふれたものでしかない。
このように、平安末期から鎌倉時代に名をあげた家であっても伝える系図は、それぞれの家の真実の姿をうつしているとは到底考えられないものがほとんどだ。戦国時代にいたって、各地で大名・小名として名を上げた家の系譜にいたっては、推して知るべしというところだろう。しかし、そんなかれらも自家を飾る立派な系図を有することが、社会に君臨するために不可欠のことだったのだ。
●歴史のなかで、家は混沌化する
視点を変えてみると、現在日本には1億人以上の人間が居住している。それだけの人間が住む日本にあって、確実に源氏・平氏・藤原氏などの中世名家、さらには古代の国造・連・臣などのいわゆる古代豪族の系譜を伝える家がどれくらい存在するだろうか。
もっとも、わが国の長い歴史的時間のなかで、結婚、養子などで源平藤橘の末裔に連なったこともあったろう。とはいえ、それは藤原なにがし、源なにがしといったところではなかったろうか。また自分から二十代も遡れば西暦1400年頃となり、それは戦国時代の初期にあたる。そのような時代から家を保つことは至難としかいいようがない、しかも先祖を二十代遡った時、単純計算で約1600万人もの先祖が存在することになる。これだけの人数ともなれば、そのなかには源氏も、平氏も、藤原氏もいよう。ただ、そのひとりひとりを特定できないだけといえばいいだろうか。
●家系粉飾は人間のエゴ
戦国大名家の家系とそれにともなう家紋をみた場合、古代・中世から歴史上の記録にも記され、現代にまで連綿と続く家は別として、そのほとんどの家系が自家に継ごうよく粉飾されたものであろうことは、先に述べた通りだ。
家というものは、傑出した人物が出たときに興り、どれほどの勢力・財産を誇っていても能力のない人物が継いだ場合、家はあえなく衰微している。それは乱世であればあるほど顕著となる。古代にあって、おおいに勢力を誇った家が奈良・平安時代には藤原氏にとって代わられ、その藤原氏も鎌倉時代には新興の武家に権力を奪われ、その権力を奪った鎌倉武家も、室町時代にはその多くが衰微していった。また室町時代の草創期に名をなし守護大名となった家すらも、戦国時代には成り上がってきた土豪荘によってその家を脅かされ、自家を維持できなかったものが多い。それは、諸藩の下級武士が成り上がった幕末、第二次世界大戦のあとの華族解体にと同じ事象が繰り返されている。このように、いま栄えている家であっても、どれだけの家が後代にそれを伝えていけるのだろうか。
かくほどに家を守り、持続していくことは至難だといえる。当然、家が衰微したときにはそれまで伝えられてきた記録なども失われていったことだろう。そして、名家といわれた家も歴史の闇に消えていく。そのようなはかない人の営みの繰り返しのなかであっても、やはり家を高貴たらしめたいと思う気持ちは人間のもつ業、いや我執といえば言い過ぎだろうか。
たとえば、自家の家系を飾るとき、人は、歴史上に芳名を残したものに先祖を求めようとする。つまり梶原景時や高師直、吉良上野介などは嫌われ、源義経・畠山重忠、楠木正成は先祖として名を求める。そのいずれが悪で、いずれが善なのかは、後世の人間には分かり得ない。かれらにしても、たまたまそういう結果として名を歴史に刻んだだけであったろう。もちろん、かれらにも子孫があっただろうが、顕われることは少ない。まして罪を得た人物の子孫となれば、ほとんどが子孫の手によってその人物は抹殺されていることが多いようだ。
●先祖探しは、自分探し
いま我々がこうして存在していることは、人類が誕生して以来の長い時間を経て、途切れることなく受け継がれてきた血脈の末に位置していることは紛れもない歴史的事実といえる。そこには天文学的数字の先祖が存在し、そのなかには、誇れる人物も、避けたい人物もいただろう。しかし、残念ながらそのいずれもが先祖であって、しかし、善悪を語る以前にかれら先祖の事蹟を明確に伝えている家は、ごく少数に過ぎない。
ルーツ探しが流行っているという。それを否定するものではないが、自家の先祖を源平藤橘に求めるものであってはならない。それは、いまに生きる自分の存在を確認する作業でなければならないだろう。
現実的に身近な祖である、つまり父・母から祖父・祖母のことを、どれほど知っているだろうか。以外と知らないことが多いのではないだろうか。ルーツ探しとは、遠い昔の立派な先祖を発見することばかりではなく、いまの自分の身近なところの先祖の事蹟を見つめ直していくことだといえないか。そして、そこにある家紋の由来ともあわせて、自家の歴史に向かい合ったとき、改めて自分の存在を長い歴史のなかに蔵めることができるのではないだろうか。
【蛇足】
戦国大名の家系と家紋を探索しているのは、かれらの興亡はどのようにされて、ある地方に影響を残していったのかを
考え、家系図に記された虚実をはかれない人物の生涯に思いを馳せながら、歴史の旅を楽しんでいる。
それに彩りを添えてくれるのが、かれらが自家の印とした「家紋」なのであった。と、いっても日本史のなかで、
戦国時代が好きなんですね。
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